エッセイ

中国東北部史跡を巡る列車の旅報告感想文集

2017-03-31

旧南満州鉄道(大連~瀋陽~ハルビン)を高速鉄道で走る

「中国東北部史跡を巡る列車の旅」報告・感想文集

日程:2016年9月18日(日)~23日(金) 五泊六日

主催:横浜日本中国友好協会

企画・実施:日中平和観光株式会社

 

 

 

会長 飯田 助知

 

今回の旅は、学習と観光とのバランスのとれたよい旅でありました。私たちはこれまで旅を通して交流の実現に努めてまいりましたが、これについてもまた一歩ねらいに近づくことができました。

この度のコースは、「戦後70年」の流れを受け、歴史に向き合うことを念頭に設定いたしました。九・一八歴史博物館、七三一部隊遺跡、旅順の戦跡など、いずれも中国人にとっては「忘れられない」、日本人にとっては「忘れてはならない」(ガイドの王軍さん)ところです。私達は、見学を通して、中国人が歴史の記録・保存に極めて熱心なこと、それはハード・ソフトを問わないこと、更に教訓としてそれらを将来に生かしていこうとしていることなどを実感しました。

関連して言えば、日中双方にとって「憎悪の連鎖は断ち切らねばならない」(周恩来)を胸にきざみ、行動でそれを示すことが重要だと思います。

9月19日の遼寧省人民対外友好協会訪問時に話題となった自然環境の保全、省エネルギー、高齢化時代への対処、各種インフラ整備など日中共通の問題課題の解決に協力して取り組む具体的行動が求められていると言えましょう。日常のレベルでもいろいろあるのではないでしょうか。旅から得たヒント・課題も貴重です。

今回の参加者は11人でみな比較的高齢者、しかし活動的で優秀なガイドさんたちの計らいで変化に富んだ見学地を巡ることができました。さらに、会食の際はいつも一つのテーブルに全員が収まり、豊富な話題で相互理解も深まりました。

 

 

≪旅行日程の概要≫      副会長 菅田 弦

9月18  成田空港から大連空港へ。大連市海外旅遊有限公司の王新さんが出迎え。6日間我々のガイドをしていただいた。 専用車で大連北駅に(以後、市内移動は専用で)。大連北駅から高速鉄道乗車。2時間弱で瀋陽駅へ。レストランで夕食後ホテルへ。

9月19  遼寧省人民対外友好協会を表敬訪問。1時間の懇談の後、昭陵(ホンタイジの陵墓)見学。昼食後、瀋陽故宮、福陵(ヌルハチの陵墓)見学。老辺餃子店で夕食。

9月20  九・一八歴史博物館見学 瀋陽駅から高速鉄道乗車。2時間強でハルビン西駅へ。ソフィア教会(内部は歴史展示場)、中央大街見学。ロシア料理の夕食後、モスクワ劇場で「百年哈尔滨」を鑑賞。その後、自由市場、ロシア街、スターリン広場を見学。

921  七三一部隊罪証陳列館見学。ハルビン西駅から高速列車乗車。3時間半で大連北駅に。

9月22  東鶏冠山、水師営会見所、二〇三高地など旅順の日露戦争史跡を見学。旅順港を見てから大連外国語大学へ。日本語を学ぶ学生と交流。海鮮料理の夕食後ロシア街、星海広場等を見学。

9月23日 中山広場、大連賓館(旧ヤマトホテル)見学後旧日本人街を経て大連空港に、成田空港で解散。


コンパスの針は振れず    会員 杉野 元一郎

やはり大陸は広い、車窓からは中国東北部らしい大平原がいつまでも続く。大連~瀋陽、瀋陽~哈爾濱と窓際に置いたコンパス(磁石盤)の針はほとんど振れずに列車は北北東に向かって走り続ける。どこまでも直線に敷設された線路に日本との違いを感じる。僅か70~80年前、日本が強く関与した満洲国の史跡を巡り、戦争と植民地化が引き起こす人間の異常な心理(当時は正常か?)と行為に触れ暗く複雑な気持ちになったが、改めて過去の実態を知り、考える良い機会でもあった。

今後日中友好の絆を一層深め、両国とも平和を目指すコンパスの針は微動だにしないことを願うのみである。

 

今回の中国旅行実感     理事 嶋 公治

この度の旅行は、例年と違い上海の対外友好協会を通さずに横浜日本中国友好協会が独自に旅行会社と相談の上実行されました。私の知る限りでは、この20年間で上海対友協を通さずに協会の旅行を実施したのは2回目でしたが、そのいずれも問題となる事は無く楽しく旅行が出来たことは良かったと感じている次第です。

旅行の内容はいろいろの方が述べられていると思いますので私は詳細は省きますが、今回の旅行で私が感じた大きなポイントは、①日本が中国に関与した軍事事件の歴史の見直し(教科書に無い)②日本語を学ぶ中国人との交流であったと私は感じました。大変意義のある旅行であったと思いました。これからも今回の様な何か目的のある旅行を企画していければと感じた次第です。

 

二〇三高地に立って    会員 畠山 利子

今回の旅行では、地平線の見える大地を一直線に疾走する高速鉄道に乗れたこと、先の大戦の跡を詳らかに示す種々の展示に胸の奥深くをぐさりと突き刺されたこと、遼寧省人民対外友好協会表敬訪問、大連外国語大学の学生との懇談等、意義深いものが多々あった。が、一度は訪れたいと切望していた二〇三高地を踏むことができたことも印象深いことであった。

この地を踏むことは、大仏次郎賞となった大江志乃夫の『凩の時』を20年前に読んで以来の念願であった。「あの二〇三高地をいったん占領したとき、夜に入ってからのロシア軍の猛烈な逆襲の光景が焼き付いていた。津波のように押し寄せてくるロシア軍の巨大な黒い影は、無限の兵力を思わせた。(中略)身を隠す地物もない山上で兵卒たちは首をすくめ乱射乱撃した。」敵味方の砲弾が炸裂していたことだろう光景を頭の隅に描きながら、山頂への道を登った。今は歩きやすい道となり、両側に木々が生い茂って平和な景観を呈しているが、酸鼻を極めた戦場であったに違いない。

二〇三高地の頂上に立って、この中国の地で、日本とロシアという外国の軍隊が激戦を交えていたことを複雑な思いで、いや憤りを持って、私は旅順口を見下ろした。

 

日中の絆     中国語講座生 七宮 正行

9月18日大連から高速鉄道で瀋陽へ。泊まったホテルのTVでは九・一八事変の式典の報道をしていた。翌々日満州事変の引き金となった悔恨の地にある九・一八歴史博物館を訪ね入口にある巨大なカレンダー型のシンボルに圧倒されました。

館内のジオラマなどでの展示物には驚きを隠せませんでしたが、過去100年の中日関係の歴史を顧みると、後半の50年は中日両国国民が友好関係を発展させようとした歴史であるとの展示を知り、改めて両国の友好を重んじていることも知りました。

旅順では大連外国語大学を訪問して日本語学科の40名程の学生と交流を行いました。学生達は日本の文学、映画、アニメに興味を持っている学生が多く、かなりの日本通の学生が多かったことに感動しました。

 

高鉄「和号」に乗って    理事 小松崎 勇

今回の旅行は、高速鉄道に乗るのが楽しみの一つだった。時速300キロでとうもろこし畑を北へ北へ進む「和谐号」。高速運転のため当然ながら時刻は正確である。侵略、植民地化の象徴とも言える旧南満州鉄道に代わる「哈大高鉄」は、現代中国にとって大きな威信を象徴するものと思われた。

車内で弁当を食べていると、「おいしいですか?」と話しかけてきた中国人がいた。名古屋で実習生として働いたことがあるそうだ。話が進むと奥さんと生まれたばかりの子供の写真を見せてくれた。とても幸せそうである。列車の旅は楽しい。

一方、「9月18日」と言うことでやや緊張感をもって瀋陽駅に降りたった。「九・一八歴史博物館」、ハルビンの「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」を参観した。屈辱的な歴史事実を忘れまいとする中国、ややもすると歴史事実を歪曲したり、薄め忘れさせようとする日本の一部勢力との溝は埋まらないだろう。「前事不忘、后事之師、日中友誼、万古長青」を改めて心に銘じた。

高速鉄道に乗り、史跡を巡り、遼寧省人民対外友好協会や大連外国語大の学生との交流、「偽満州帝国」を垣間見る有意義な旅であった。もう少し、自由時間が欲しかった。

 

生まれ故郷への旅      会員 荻内 伸也

予てから、是非行きたかった「旧満州への旅」がやっと実現。これも小松崎氏のお誘いで日中友好協会加入のお陰と深く感謝。五泊六日の短期間だが、幸いにも天候、同行者、ガイドにも恵まれ、素晴らしい旅だった。旧満州は、私の生まれ故郷遼寧省丹東市(旧安東市)で、丹東へは行けなかったが、次回は旧満州の他地域を是非再訪したい。

大連、瀋陽、ハルビン共中国の代表的な都市で、高層ビル、マンション群が林立し、街の賑わいぶり、人の動き等から、その経済大国ぶりを目の当たりにして、「百聞は一見に如かず」を大いに実感。

また、大連外大日本語学科学生との交流や遼寧省人民対外友好協会との情報交換等現地の方々との触れ合いを通じ現地の状況把握に大変役立った。

しかし、マンションの空室状況、都市と地方との格差、インフラ整備状況、新幹線や飲食店やホテルでのサービスと清掃面等で日本との大差を感じた。

 

これからの日中友好を考える旅      運営委員 成松 明俊

今回の旅行は行先が旧満州国および日本が租借していた旅順、大連地域ということで、日中関係を強く意識させられた旅行でした。

二〇三高地などの日露戦争の戦跡は、東洋の一貧国が欧米列強に伍する国に発展する過程の苦難の歴史の1ページ、「坂の上の雲」の舞台として多くの日本人には刷り込まれていますが、日中関係という目で見れば、日清戦争のあとの日本の中国侵略の出発点であり、その前に見学していた九・一八歴史博物館、七三一部隊陳列館の陳列内容にもつながっているということを再認識しました。

今回の旅行では、大連や瀋陽の中山広場のように侵略時代の日本が造り、いまは周囲の建築物の景観を含め市民の憩いの場になっている場所の見物、遼寧省人民対外友好協会訪問、大連外国語大学の若い学生たちとの交流の機会があり、単に過去を反省するだけでなく、これからの建設的な日中友好を考える機会を得られた旅行でもありました。

 

中国東北部の戦跡、実体経済、学生交流で感じたこと          会員 中尾 昭一

大連、瀋陽、ハルビンを巡る旅に参加した。何よりも天候に恵まれ快適な旅であった。然し訪れた旅先は戦跡で気がおもく人生の癒しとなる旅行とはならなかった。満州事変、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争、日露戦争は今の私たちに語りかけている歴史的史実とどう向き合うか心の痛む参観だった。具体的に巡った場所は(1)瀋陽では1931年9月18日関東軍が柳条湖で鉄道爆破、これに端を発し満州事変が起きた。陳列博物館、その庭内には当時爆破された石碑が陳列されていた。当日庭内で軍隊の歩行訓練が行なわれていた。(2)ハルビンでは関東軍七三一部隊本部があった場所と七三一細菌部隊罪証陳列館を見学した。館内の説明は日本人用にイヤホンが用意され歩きながら陳列品が理解できるようになっていた。人体実験がどのような方法で行なわれていたか、沈痛な見学だった。戦争の悲惨さ非人間性、残虐さを言葉では語り表現するのは難しい。(3)大連では旅順東鶏冠山,水師営、二〇三高地戦場跡地を見学した。旅順攻略では若者たちが湯水のように消費され、命をおとした。日本人は1万5千人が犠牲になり、ロシア兵9千人が犠牲になったと案内板に掲示されていた。塹壕、地中の作戦本部、迷路の地下道は当時いかに激しい激戦地であったか、戦跡が無言に今の私たちに語りかけている。

203㍍高台に記念塔が建立されていた。

瀋陽駅に到着して驚いた。駅前周辺は旧日本人が建築した建物が当時のまま保存し利用され、沿岸都市部のような高層ビルがなく整然とした街並みに感心した。車で5分も走らない中心地に建築途中の30階高層ビルが骨組みのまま放置されていた。倒産したのか工事中断不動産バブル再燃の予兆か?異常に感じた。

旅順へは海浜大橋を走行した。この大橋は森林動物園から高新技術園に架けられた星海湾大橋で6800㍍2015年10月31日開通した。走行中海浜を埋め立て建築した30階高層マンション7棟が売れなく空き家のままの状態である。ガイドの王新さんが「誰も買う人がいません。」と言っていたが、売れない分譲マンションが数多くその周辺にも見られた。不動産市場の過熱で不動産バブルが膨らみ、再々燃の予兆が感じられた。膨らむ不良債権がどこまでか?これらの不良債権は莫大で当局が発表しないから本当の数字は霧の中不透明のままである。中国の不良債権規模は12.5兆元(約190兆円)と公式統計の10倍だとする日本総合研究所の発表がある。中国経済が隠し持つ金融危機を招きかねない「爆弾」の潜在規模だとはじきだしている。灯りのつかない高層マンション群はゴーストタウンとなるのだろうか。中国経済は深刻な状況ではないかと思った。ゾンビ企業も大きな課題となっている。

大連外国語大学日本語学科学生交流は短時間だったが有意義だった。王聡(甘粛省蘭州出身)、任静(遼寧省瀋陽出身)との会話はもりあがった。 川端康成著「雪国」を読んでいます。仕事は何をしていますか、職業は、趣味は、マンガ、アニメ、日本の歌を歌ってください。日本語検定料は高い等々矢継ぎ早に質問がくる。この対応は大変だった。政治、外交関係では軋轢が目立つ日中関係だが学生との会話はほほえましい。日本企業、中国国有企業との会社相異論にまで話題が波及すれば白熱した議論になったかもしれない。

 

侵華日軍第七三一部隊遺跡を訪ねて          中国語講座生 和田 萬生

その場所はハルビン市の南方に位置していた。

レンガ作りの建物の跡が残されていて、中でもボイラー棟の煙突2本が特徴的であった。

私たちが旧日本軍の七三一部隊の遺跡を訪れたのは9月20日。雨ばかり続いていると言う日本とは違って、天気は雲一つない晴天であった。遺跡には記念館があり、関連する資料が展示されていた。展示物は客観的なものが整然と展示され、説明も淡々と事実だけを述べていた。

印象的だった点

  • 生身の人体を使った凍傷実験
  • 黄色ネズミを使った細菌培養 ・ガス室
  • 七三一部隊が政府公認で多額の予算を受け入れていた。
  • 戦後の要職についた人物の関与もあった。
  • 当事者の倫理観の欠如

七三一部隊については私の高校生までには歴史授業で習ったことを記憶していないし、日露戦争以後から現在までの歴史は駆け足で学んだ記憶があり、今回の旅行で、この近辺の歴史を知り、大変、衝撃的であった。

翌日には大連外語大学日本語学科の学生さん達と交流する機会があり若者のエネルギーと日本への期待を感じ、改めて日中友好の重要性を感じることができた。今回の旅行を企画していただいた

横浜日中友好協会の皆様に感謝するものである。

 

「恥」を忘れず未来へ    副会長 菅田 弦

本会では、毎年訪中旅行を行っているが、今年は高速列車を利用して、大連、旅順、瀋陽、ハルビンの史跡を訪ねた。その多くは、戦争、侵略に関する史跡だった。

旅順では日露戦争に関する東鶏冠山、二〇三高地、水師営会見所を見学した。日本とロシアの戦いが中国の地で行われたのだが、そのことについてどう思うかと中国人のガイドさんに聞いた。「国の恥です。」との答が印象的だった。

日本人として本当に恥である二つの施設の見学は重かった。瀋陽の柳条湖の線路脇にある九・一八歴史博物館。関東軍による侵略の展示は見るのが辛かったが、解放への苦難を乗り越えた、平和の大切さの訴えには安堵した。ハルビンの七三一部隊罪証陳列館の見学はあまりにも苦しかった。館内を見た後、外の残された施設の残骸を見て回り、重い気分はさらに増した。中国を知るにはこの辛い気持ちを心の根底に持つ必要があるのではないかと痛感した。この旅では、遼寧省人民対外友好協会の表敬訪問や大連外国語大学の日本語学科の学生との交流など見学以外の体験もした。

また、高速列車の快適さ、正確さを知ることもできた。各都市では旧満州時代の日本の建築物を大切に利用している。過去を尊重しつつ未来へ歩む中国の今を実感した旅であった。

 

 

 

 

 

太極拳観

2017-02-01

1.太極拳講座の歴史

中国4000年の歴史の中で、「武術」、「医術」、「養生法」などの歴史は紀元前に遡ります。太極拳も武術の流派のひとつですが、太極拳そのものの起源は明代末、1640年代と言われ、三百数十年前にできたものです。しかし、太極拳の運動哲理は、「老子」、「荘子」、「孔子」、「孫子」などの思想の影響をうけているものです(陰陽思想など)。中国の古代から連綿と伝わる智慧と文化に基づいて、幾多のすぐれた武術家によって作りだされたものが太極拳です。一般に武術とは徒手又は武器による人間と人間の闘争技術、格闘技術を体系化したもので、人類の歴史とともに古いものです。闘いの技術は、人間の生死存亡に関わる根源的な行動であるため、暴走しないように制御しながら発達させることが必要でした。太極拳は護身の技術であるとともに、発展するなかで教育、医学、社会学、芸術などと互いに影響を与え合い、多方面にわたって文化を発達させる要素ともなってきました。

本講座がスタートしたのが1980年、日中国交が回復され情報や人々往来とともに太極拳が知られるようになりました。TVでサントリーウイスキーのCMが放映されその動きに魅了され一気に太極拳ブームに火がつきました。その頃横浜に朝日カルチャー太極拳教室が出来一期生として入会、後に横浜日中太極拳講座を立ち上げた麹池和十さんと出会う事になります。スタートした時の練習場所は南太田の近くY高の隣の南センターの庭で始まりました。多い時で100名位の人々が集まり練習していたそうです。しばらくしてゲートボールのグループに場所をあけわたす事になり、センター2階のテラスを使う事になりましたが、この場所が狭く一度に多くの人が動けないので午前、午後の二部制になり、麹池和十さんから午後のクラス48式を引き受けて欲しいと依頼されました。この練習場所は屋根が無いため夏は太陽が燦々、雪や雨の日は玄関前のアプローチを借りて皆熱心に練習に励みました。

3年位たった頃には神奈川県内の太極拳教室やサークルもあちこちに出来、屋内で練習をしているので、当講座も大室元理事、辻元理事等の尽力で南地区センター等を使用出来るようになり午前、午後に分かれて練習していた3クラスが一緒に練習出来るようになりました。

2.太極拳とは

太極拳には伝統太極拳、制定太極拳の二つが有ります。 伝統太極拳は中国の無形文化遺産であり儒教、道教哲学、陰陽理念、経絡学、古代導引術、吐納術を取りいれた武術であります。

伝統太極拳で最もポピュラーな太極拳は楊式太極拳で24式の元となった太極拳です。そして伝統太極拳の東洋医学、養生学を深く取り入れた鍛練方法が徐々に心身の健康という面で大きな発展を遂げる健康法として知られるようになり、1956年に中国の国家機関でもある体育運動委員会が多くの人々の健康法として太極拳を学びやすくする為に、編集されたのが制定太極拳の簡化24式です。その後48式 88式 32式剣等が制定されました。

現在、日本では大半が制定太極拳を練習しています。伝統太極拳も制定太極拳も健康法として取り入れるのであれば、どちらも同じ効果があります。太極拳を始めるには形を正確に一式一式体で覚えていきます。型や套路を多く覚えれば良いというものではありません。太極拳の運動体系(理論)を基礎として練習を積み重ねていき、太極拳、剣、推手へと進みます。太極拳といえば「ゆっくり動く」イメージが多く持たれています。このゆったりとした動きの中から深い呼吸を伴い気持ちが平静となり、姿勢も良くなり感覚も敏感となります。太極拳の大事な要求に放松(ファンソン)が有ります。緊張を解き放し、リラックスする事で力を抜くということで簡単な事のようですが、極めて難しく、太極拳の練度に応じて無限の階層が有るようです。

3.太極拳の効用

様々な年代が愛好する太極拳、その健康への効用は多岐にわたります。体を動かすことは大変良い結果を生みます。わけても太極拳は筋肉・関節をゆっくりと動かし、無理のない形で血流を増やし体の隅々まで気血の流れを促します。足腰の筋力強化、骨の内側のインナーマッスル、全身の関節の柔軟性、バランス能力、体の動きの調整能力等を向上させます。
そして認知症の予防、転倒防止、内臓諸器官の健全化、老化防止、等にも役立ちます。太極拳は、幅広い年齢層が生涯を通じて練習を続けることができる「生涯スポーツ」です。高齢者にとっては介護予防の観点からも必要な事になってきています。

健康で長生きすることこそが目的です。

太極拳講座 講師 徳田清方

私的「移山」(その2)

2014-11-19

私的「移山」(その2)                    石井重行

 

 

4.苦手の対策

昨年6月までの準1級の試験はヒアリングと筆記だけであったが(昨年11月の試験から2次試験として面接試験が追加された)、合格基準点はかなり高くてそれぞれ原則75点、一方だけクリアしても次回一方が免除にはならない。ヒアリングは中国語の長い文章を聞いてそのあと文章の内容に関連する質問の4択問題が10問、放送される中国語の文章をそっくり書き取る問題が5問。筆記の方は各種5択問題が約30問とピンインを中国語に直す問題2題、中文和訳3題、和文の中国語訳2題または3題である。最初はどれもまったく歯が立たない感じだったが次第に慣れてきて、14回目にまぐれで筆記だけ合格点をとった。その当時はヒアリングがとくに苦手であったが、書き取りは楷書で書こうとすると放送のスピードに追いつけず、走り書きのような要領で書くことでようやくなんとか間に合うことを知った。27回目にヒアリングが初めて合格点に達し、もう一息という感じになった。しかし、その頃になって和文の中国語訳が致命傷と判断できる採点が続いて、これを解決しない限り合格の見込みはないと思った。中国語検定協会からは再三、特訓通信講座の勧誘もあったが、その内容を見て実力がつく感じがせず参加しなかった。

そして2年前、当協会のブラッシュアップクラスの内容を知り、天佑のようにこのクラスに参加すると、以後、翻訳要領が身についたのか試験の和文中国語訳の採点が格段に高くなって、遂にトータル合格点を得られたのである。

もう一つ不可欠な課題としてトイレ対策がある。年寄りにかぎったことかも知れないが、準1級試験の拘束時間は2時間20分で、この間試験場から出たら失格となる。まず前夜から水分絶ちをして、さらに直前にトイレに行くなどしても、終了30分前くらいからは我慢を強いられることになり、この苦しみから解放されただけでも、合格の意味が有ると思っている。

 

5.反省

59歳で退職した時、実は中国語以外にもう一つ目標が有ったが、暫くして二兎は追えないことに気付き、取りあえず中国語1本に絞ったのだが、目標達成までにこんなに年月を費やすとは思っていなかった。第一に目標が高過ぎたことが悔やまれる。61歳で準2級合格の時、次のもう一つの目標に切り替えれば別の人生が展開したことと思う。この歳になってはもう一つの目標に挑戦する気力も失せかけている。

記憶力が特に求められる語学の習得にこの歳になって夢中になったのは愚かといえるが、70歳過ぎてから記憶力の低下が歴然としてきて、新しい語句がなかなか記憶できないだけでなく以前全部記憶したはずの単語カードを1年位たって見直すと半分近く思い出せないといった状態で、限界をつくづく感じている。

単語カード160冊は単純に計算すればなんと1万6千語を収録していることになり、これだけでも財産と考えることもできるが、実は以前にカード化したことを忘れて重複してカード化したものがかなり混ざっている。また、一般には使わない語句や日本語での説明がないものなども多く、その類のものは何回暗記を繰り返しても記憶に残らない。さらに最近作成したカードほど記憶に残らないのはどうも私の脳の老化が原因のように思う。160冊の単語カードは毎日3冊暗記し直しても一回り約2ヶ月かかるので、その間にまた忘れてしまうのである。

 

年寄りの繰言になるが、身の程も弁えず高い目標を掲げた結果、自縄自縛の長い年月を費やしてしまった。記憶力が要となる語学なので、もっと若い時期に始めていたら、こんなに梃子摺ることもなかったのではないかと思う。

さらに、73歳になってもう後がないと感じた時から学習にかける時間も増やし1日平均4時間位集中したが、これをもっと早い時期からやっていたら、事態はきっと変わっていたのではないか、私にとっては難攻不落であった目標だが今思えば攻め方に問題があったと反省している。

(完)

 

(注)「愚公移山」:どんなに困難なことでも辛抱強く努力を続ければ、いつか必ずなしとげることができるというたとえ。「移山」は当協会の機関誌名ともなっている。

中国の愚公という名の90才にもなる老人が、家の前にある二つの大山をほかへ動かそうと、土を運び始めた。人々はその愚かさを嘲笑したが、愚公は子孫がその行いを引き継げば山を移動させるだろうと、一向にひるまなかった。その志に感じ入り、天帝(神様)が山を移動させ平らにしたという「列子」の故事に基づく。

 

私的「移山」(その1)

2014-11-08

私的「移山」(その1)                  石井重行

 

1.はじめに

 私は昨年6月、75歳で遂に永年受験してきた中国語検定準1級に合格できた。昨年6月の準1級合格率は約24%でそれまでの回の合格率より格段に高かったが、検定協会に伺った話ではこの回の60歳以上の合格者は全国で2名、私が最高齢とのことであった。

 中国語は50歳の時に全くゼロからスタートしたが、それまで30歳、40歳と10年単位で自分なりのいろいろな目標を定めそれなりに目標を実現してきた過信から、何の根拠もなく60歳までに中国語検定2級(現在の準1級)合格を目標とした。しかし現実はそんなに甘いものではなかった。百折不撓を口実に実に合格まで25年、準1級の受験回数は37回。

 私にとって準1級合格はまさに「愚行移山」といえる。私のこれまでの愚行は「他山の石」としての価値があるのではないかと思い、横浜日中友好協会から第1回の合格者表彰を受けたお礼も兼ねて恥を晒すこととした。

 

2.受講と受験の経過

 50歳当時はサラリーマンだったから、毎週1回、夜7時から2時間、中国留学生援護会の中国人留学生(主に横浜国大の大学・大学院生)を講師とする教室に通っていた。中国語検定試験は1年後に4級を1回でクリア、2年後に3級を2回目でクリアしたが、3級から準2級(現在は2級)のレベルの差は大きく、週1回程度の学習ではとても歯が立たないと思い悩んで、遂に59歳で退職を決意した。

 退職後は月水金の週3回中国語教室に通った。月曜は中国留学生援護会の午前10時から12時の自由会話クラスに闖入。このクラスは援護会の40近くあるクラスの中で最高レベルと評価され、私が参加した当時は留学生中最年長の講師も受講生もすべて女性、受講生の大部分が中国で数年生活してきたような、中国語ぺらぺらの人達で、闖入しては見たものの教室内では基本的に中国語しか使わないので会話について行けず面食らうことばかりだった。それでも男一人ということで大切に扱ってもらったので何とか辛抱できた。

 水曜と金曜はそれぞれ横浜日中友好協会のの6時半から8時半までのクラスで、水曜は新設された検定クラス(S老師担任)に参加しここではずっと班長を務め、先生からは受験用教材を頂いたり、私の受験狂いに惜しまない援助を頂いたが、期待に答えることができないうちにこのクラスは定員割れで解散してしまった。また、金曜は中級クラスで、協会のクラスとしては最高レベルということで、やはり初めは中国語が聞き取れず針の筵に座っているような2時間であったが、やがて耳慣れてきた。週3回の学習に切り替えた1年半後、4度目の挑戦で準2級(現在の2級)に合格できた。以後15年間、途中1回だけ休んだが、年2回、途中から年3回(3月6月11月)準1級に挑戦し続け、遂に37回目で、山を動かせたのである。

 

3.自習の方法

 とくに心掛けたことは中国語の語彙を増やすことで、コクヨの単語カード1枚に2語、1冊50枚に100語収録したものを作り、常に持ち歩いて暗記につとめた。手持ちの古い岩波中国語辞典がそれぞれの単語を重要度に応じて6種類にランク付けしているので、重要度の高いものは全部カード化した。また月曜のクラスメートが中国旅行のおみやげに私にだけ「現代漢語虚詞辞典」や「同義語小辞典」などを買ってきてくれたり「四字熟語辞典」を貸してくれたりしたので、これらにも一通り目を通し、何くれとなく選別してカード化した。留学生講師が貸してくれた中国の高校生の漢語の学習参考書に重要四字成語として挙げているものが数百あったので、その中で知らなかったものはカード化した。一方、59歳で退職してからCCTVを家で見るためにアンテナを設置し、毎日1時間は見ることとし、字幕に出てくる意味不明な単語はメモして辞書で調べ、出来る限りカード化した。このようにして単語カードは現在までに約160冊、これを毎日順繰りに3冊づつ持ち歩き、空いた時間があれば何処ででも繰り返し暗記した。

 さらに、テキストや受験用教材、検定試験の過去の出題などから選んだ短文を細長い単語カード1枚に2文、1冊30枚に編集したものを現在までに約30冊作った。これも当初単語カードと同じように持ち歩いたが、それだけでは正確に記憶できない脳力であると悟り、73歳になってから背水の陣の想いで毎日1冊書き取り暗記することとした。これは当初非常に時間もかかり苦痛を感じることもあったが、やがて比較的順調に復習できるようになり、今になって思うと、もっと早く実行すべきであった。

 

                           (続く)

 

(注)「愚公移山」:どんなに困難なことでも辛抱強く努力を続ければ、いつか必ずなしとげることができるというたとえ。「移山」は当協会の機関誌名ともなっている。

中国の愚公という名の90才にもなる老人が、家の前にある二つの大山をほかへ動かそうと、土を運び始めた。人々はその愚かさを嘲笑したが、愚公は子孫がその行いを引き継げば山を移動させるだろうと、一向にひるまなかった。その志に感じ入り、天帝(神様)が山を移動させ平らにしたという「列子」の故事に基づく。

エッセイ「中国千鳥足紀行 その5」

2013-09-20

エッセイ「中国千鳥足紀行 その5」           横田盛幸

 

さて、旧暦大晦日の前日にOさんの実家に到着しました。

お嫁さんのWさんが小さな足踏みをしているので「どうしたの?」と聞くと、答えは簡単、「横田さん、寒いですよ」と。たしかに、Oさんからは、出発前に家の中は外より寒い時がありますと言われた記憶がありました。

 

その日の夕食の料理は本番の大晦日や元旦に劣らず、豪華な料理でした。お皿の数は十皿以上です。Oさんのお父さんは台所から料理を運ぶ役です。日本のように座ってお客様のお相手をするのは、お母さんの作る料理の最後の一皿を運んできてからです。

食卓は普段と同じ台所にある、簡単なテーブルに長いすです。宴席用の丸テーブルは部屋の隅に片付けてあります。日本の中華料理店と同じ回転テーブルでした。

話は変わりますが、食事中に隣近所の子供が入ってくると、一緒に食べるそうです。後日ドウドウちゃんが他の家の開け放たれた玄関から入っていきました。ちょうどお昼ご飯中でしたが、嫌な顔ひとつせず、手招きされました。閑話休題・・。

 

さて、おまちかね。「米酒」の登場です、見た目、日本酒と変わりませんが、少しすっぱい感じでした。これを日本で言うご飯茶碗で飲みます。つまり茶碗酒です。お嫁さんのお父さんと二人でニンニクの茎を肴に米酒をグビリ。これがちょっと辛くて米酒の甘酸っぱさに、大変口当たりがよく、またグビリ。ようやくOさんのお父さんも酔客の席に座り、男三人で中日友好の飲み会がはじまりました。でも肝心のOさんは下戸で飲めません。中国人全てがタバコを吸い白酒を飲むと思うのは間違いです。

さて、中国では食べかすの鳥や魚の骨はテーブルの上にそのまま置くのを皆さんはご存知だと思います。テーブルの上に赤いビニールが掛けてあり、最後に回転テーブルの上の赤いビニールを外して袋のように丸めればテーブルを拭かずに後片付けは終了です。

こうして、5日間の中国の農村での春節が始まりした。・・・でも、寒い。

 

 

エッセイ「西安交通大学留学の記」(3)

2013-08-23

エッセイ「西安交通大学留学の記」(3)   林 臣一

 

さて、私の留学の目的は聴力の飛躍的進歩にあったわけですが、三カ月半では、留学前よりは聞き取れるようになりましたが、飛躍的進歩とはいきませんでした。

留学中、私なりに聴力を伸ばすにはどうしたら良いかと考えた結果、第一は毎日真面目に授業に出席し老師の話を聞くということでした。毎日4時間あるわけですから、これは一番良い生きた教材だと考えました。

そして第二は同学(同級生)と出来るだけ多く話すことです。同学とは基本的に中国語を使っての会話です。日本、韓国以外の人は、ものすごく速くしゃべります。自国の言葉をしゃべっている時と同じような速さです。最初はほとんど聞き取れませんでしたが、話の内容はたわいもないことなので、1ヶ月過ぎるころには、だいたい聞き取れるようになりました。

中国に来て2ヶ月が過ぎたころ、昼食を食べながら、欧米人はなぜあんなに速く中国語をしゃべるのかという話になったことがあります。2班にいた日本人留学生はまさにその日、口語の老師からその話があったというのです。中国語がうまくなるには、次の3つのことをやりなさいと教えられたということです。

1、当然のことですが発音と四声は正確にすること。

2、テキストを音読するときはリズムに気をつけること。(欧米人は漢字が苦手な人が多いので、とんでもない所で切って読む)

3、話す時は速くしゃべること。

この3を欧米人は皆実行しているわけです。

第三は学校の外へ出て、街の人たちと話をすることです。

これは苦戦しました。私が日本人だとわかると、ゆっくり丁寧に話をしてくれる人もたまにはいましたが、ほとんどの人は相手のことなどお構いなしに、自分の言いたいことをまくしたてるので、全く聞きとることができませんでした。もちろん私の話すことも全く通じません。

授業中の老師との会話、また同学との会話は難しい内容でなければ問題ありませんでした。皆、真剣にお互いの言うことを聞きとろうとするし、また、話を相手に分かってもらおうと努力するので通じるのだと思います。

 

 留学前は資格には全く興味がありませんでしたが、若い日本人留学生から、皆HSKの試験を受けるので一緒に受けませんかと言われ、私も自分のレベルがどの程度か知りたいと思い、12月初旬のHSK5級に挑戦してみました。聴力、閲読、写作の3科目です。300点満点ですが180点で合格です。4班からも8名が5級を受験しました。結果は帰国後に判明し、合格していました。HSK5級の合格証書だけが眼に見える留学の成果です。

                                完

エッセイ「中国千鳥足紀行 その4」

2013-08-23

エッセイ「中国千鳥足紀行 その4」           横田盛幸

 

2月8日夕方、日没後ようやく汪王村に到着しました。横浜の洋光台駅を午前4時54分の始発電車に乗車してから、ほぼ十二時間ほどの長旅でした。

周りの風景は殆んどわかりません。

とりあえず、台所から居間へと、Oさんのお父さんに案内していただきました。

まず、杭州の西湖龙井茶によく似た越乡龙井茶と山核桃(鬼胡桃)をご馳走になりました。お茶の入れ方はマグカップに茶葉を一掴みいれ、十本位用意してあるポットからお湯を注ぐのですが、お嫁さんのお父さんからいただきました。

そして、前回のビニールハウスの主である「草苺」がボールに山盛りで出てきました。 それはそれは「非常甜的!」本当に驚きました。山東省で日本のビールメーカーの系列会社がやはり、大消費地の上海へ「牛乳」や「苺」を出荷していますが、こちらも選別や出荷のインフラを整えれば、上海は遠くではないので太刀打ちできると感じました。

食事が出来るまで、テレビを見たり、お嫁さんのお父さんと「簡単な単語」で会話していました。Oさんはじめお嫁さん、お嫁さんの両親全員が見るからに暖かな布製で、中もボアでできた靴を履いていました。Oさんのお父さんがソファーに座っている私の足元に来られてひざまずき、その暖かい靴を履かせようとしました。私は驚いて「不行、不行」。その後、「対不起」そして、日本語で「すみません、自分で履きます。」といいましたが、心の中で自分は中国語の何を学んできたんだろう、簡単な会話が出来ない――心中暗転。

部屋の壁際にさまざまな野菜が並べてあり、お父さん同士が話をしていますが、男性同士なのに、タバコを吸っていません。話によると中国も非喫煙者が徐々に増え始めているようです。また、部屋の角に孟宗竹が枝を残したまま立てかけてあり、その枝には「肉と塩引きした干魚」が吊るしてありました。

ああ、早く米酒にお目にかかりたいーーーー

では、また 再見。

エッセイ「西安交通大学留学の記」(2)

2013-07-16

エッセイ「西安交通大学留学の記」(2)   林 臣一

 

課外授業は習字、太極拳、水彩画、中国料理と4コースあり、協会の太極拳講座に長年席を置いている私としては、当然太極拳コースを選択しました。10月、11月の2カ月間、週4回、1回1時間の講座で簡化24式太極拳を練習します。最初は20人位の留学生がいたのですが、教え方が雑で、また進み方が早いのでほとんどの人が途中で脱落し、最後まで残ったのは私を含め4名だけでした。

 

また学校が企画して中国五大石仏の1つである甘粛省の麦積山石仏を観る1泊2日の小旅行がありました。留学生約30名が参加しました。他のクラスの人達とも話が出来て有意義な旅になりました。

麦積山石仏は西安からバスで7時間位の所にあり、農村地帯なので空気がおいしく、また澄んでいて、真っ青な空を久し振りに見ました。

夜はアメリカからの留学生と相部屋になりました。彼はすでに西安に2年間も居るので、来年は中国の他の大学に移り、1年後にはアメリカに帰り就職したいと話していました。

 

11月には文化祭もありました。昼は各国の留学生が各自のブースでお国自慢の料理を作って、他の国の留学生や中国人学生に振舞います。我々日本人留学生はたこ焼と肉ジャガを作りましたが、ものすごい人気で、あっと言う間になくなりました。

夜は各国の留学生が民族衣装を着て、歌や踊りを披露します。夜の部には欧州各国、日本、韓国は参加しません。参加国を見てみると中国と経済的な繋がりが強く、また、経済支援を受けている国が多いと思いました。例えばマレーシア、パキスタン、ロシア周辺の国、そしてアフリカの国々です。観客は中国人学生を含め1,000名位集まり、かなり盛り上がっていました。

 

中国と中国人を理解するには三カ月半の留学はあまりにも時間的に短いものでした。

学生達と話をしていると、皆明るく、前向きで、やる気にあふれている感じでした。人口が多く生存競争が厳しいので、希望の会社に入るために必死に頑張っているのがこちらにも伝わってきます。

反日感情に関しては、私が付き合った学生たちが皆日本語学科の学生ということもあり、反日ということは全くなく、非常に友好的でした。そして学校の周りの商店の人達も我々日本人に対して好意的な人が多かったと思います。

 

次回へ続く

 

 

エッセイ「中国千鳥足紀行 その3」         

2013-07-16

エッセイ「中国千鳥足紀行 その3」               横田盛幸

更に四駆は雪の中を進みます。私の心の中は白と黒のモノトーンの世界になってしまいました。このままで、たった一人の日本人が中国の農村の人々の中で十日間近く農村生活は出来るのか?どのような思いで中国の村の人々が受け入れていただけるのか本当に雪空のような気持ちになりました。本来の目的は「江南地方の農村の春節」を体験するのと「米酒」を飲みたいと言う単純な気持ちでしたから。

車の中は私とドウドウちゃん以外は、皆さんこれから村までの道路の相談しているらしく大声なので喧嘩のように聞こえます。

道路は途中の村々の中心部は舗装されていますが、それ以外は、日本より道幅はとてつもなく広いのですが、大きな「えくぼ」だらけで車は左右前後に揺れ、乗っている人たちもそのような状況でも相変わらず皆さん大声で会話をしておりました。

道順が決まったらしく川沿いの土手を暫らく走り、いきなり左にハンドルを切りました。雪なので道路はわからないのですが、その先に「橋」らしきモノが対岸まで架かっています。なぜ「らしき」と表現したかと言うと「欄干」がありません!そうです橋の両脇の「柵」が無い! 以前神奈川県の厚木市と海老名市の相模川に架かっていた沈下橋「相模小橋」と同じ構造です、またここで「慢的!慢的!」の大合唱が始まりました。川幅は50メーターを超えていますが、無事渡り切りました。

もう、車の外は暗くなり始めました。向かい側の土手を登り切るとOさんが「村に入りましたよ」との一言。でも車外は暗いのと雪で視界は良くありません。農道が一直線に続いています、その左右は一面のビニールハウスが幾棟も続いています、幾つかのビニールハウスでは灯が点り煙突から煙が出ていました。

Oさんが「横田さん、何を作っているか分かりますか?」と問われ「何だろう、わからないな」と答えると「私たちの村の特産品のイチゴです」との事、私「でも、水の豊かな村だから米作じゃないの?」問うと彼は「冬は春先にかけてイチゴを出荷します」との事。なるほど、冬の農閑期に当たる季節はイチゴを生産するのか、流石だなあ、と感心するひとときでした、このイチゴがトンデモナイと解かるのは後ほど・・。

一直線の道路の先にヘッドライトがこちらの車に向かってきます、無論日本の農機具優先の片側一車線のりっぱなスーパー農道ではありません。車一台ぎりぎりです、向こうもこちらもスピードはゆるめません。中国の農村で「チキンレース」を味わうなんて!!トホホです。

いまだ「米酒」にたどりつかず・・・・ではまた。

再見

 

エッセイ「西安交通大学留学の記」(1)

2013-06-17

エッセイ「西安交通大学留学の記」(1)    林 臣一

 

5~6年前頃から中国に留学したいという想いを持つようになりました。中国語を10年以上学んできて、授業中の老師の話が60~70%くらいしか聞き取れない、しかも肝心なところが聞き取れないというもどかしさをずっと感じていました。この状態を打破し騰飛(現在の状況から殻を突き破って、中国語がより聞き取れる状態に飛躍すること)するには、周りがすべて中国語という環境の中で生活する留学しかないと考えたわけです。

定年退職を機にその想いを実行に移しました。当初より留学の地は西安と決めていました。西安は北京、上海に比べ留学費が安いこと、昔の唐の都ということで名所旧跡が多いということがその理由です。

 

2012年9月3日からの授業開始に合わせ、8月28日に日本を出発しました。日本はまだ残暑が厳しく蒸し暑かったですが、西安は空気が乾燥しているせいか暑いのにカラっとしています。しかしなぜか街中が埃っぽい感じです。この状態は帰国するまで続き、晴れているのに真っ青な空を見たことがありませんでした。いつも白く濁っているか、もしくは灰色の空ばかりでした。この原因はよく分かりません。車の排気ガスと砂塵ではないかと思います。

車は7,8年前の自転車にとってかわり、道路はいつも車で溢れていました。政府もこんなに急に車が増えるとは思っていなかったとみえて、駐車場の設備が全く整っていません。だから歩道を歩いていても横から急に車が乗り上げてくるので驚嘆します。道路上は駐車禁止ですが、歩道に駐車するのはOKなのです。

砂塵については日本人留学生がセーターをバスタブで洗濯したところ、水を抜くとバスタブに砂が溜まっていたという話を聞いたことがあります。

 

8月31日にはクラス分けテストがありました。9月からの新留学生が1時間のペーパーテストと10分程度の会話のテストを受けました。クラスは1~4班まであり1班は入門クラスで発音から始めます。2班は初級、3班は中級、4班は上級という具合に分かれています。

私はテストの結果4班ということになりました。4班は全員で24名です。留学生は世界中から集まって来ています。私のクラスはモンゴル、イタリア、カザフスタン、ソマリア、ポーランドから各1名、アメリカ、タイから各2名、ドイツから3名、日本人は4名、残りは全て韓国人です。60歳以上の年寄は私1人で、クラスメイトは20~26歳の学生か大学卒業2~3年目の若い人達です。

授業は月曜日から金曜日まで、午前中の8時から12時までで1時間ごとに10分間の休み時間があり毎日2科目あります。午後と土、日曜日は授業がありません。授業科目は口語、読写、聴力、閲読、写作の5科目です。全ての科目で宿題が毎日出され、また予習をしないと授業が面白くないので、午後は宿題、夜は予習にあてていました。

西安交通大学には3ヶ月以上の長期留学をしている日本人は18名いました。その内半数は60歳以上の方々で、中国の老師も日本人の年寄の学習意欲に驚いている様子でした。

 

土、日曜日は授業がないので、大学の北門の真向かいにある興慶宮公園や城壁内の街に遊びに行きました。興慶宮公園には阿倍仲麻呂の記念碑があります。この公園も御多分に洩れず休日の午前中はエアロビクス風のダンス、ジョギング、散歩、太極拳、池の水を使っての習字、コーラス等の人達で賑わっています。

また、この公園の北門を出たところに休日の朝だけ市が立ちます。小型トラックで果物、野菜を運び込み荷台を店にして商売しています。その他、肉、魚、衣服、点心等も売っており、いつも多くの人で混み合っています。

 

大学は四方を塀で囲まれており、東、東南、南、北の4つの門しか出入りはできません。この塀の内に約2万人の学生が寮生活を送っています。朝の通学時、課間の教室移動時、午前の授業終了時に食堂に向かう学生達を見ていると、民族大移動という感じがします。

ほとんどの学生が眼鏡をかけています。これは勉強熱心ということもありますが、部屋の照明が暗いということもその理由です。

私は日本語学科の2年生の学生と相互学習をしていましたが、彼らは大学を出ても就職が難しいということを自覚しており、良い会社に就職するには学校の成績次第というところがあるので、皆、普段から勉強に対する意欲はもの凄いものがあります。また大学卒業後の目標を聞いてみると、皆1人1人自分の目標や夢を持っており、それに向かって一生懸命努力しているという感じです。

 

次回へ続く

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